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今週の感想というかなんていうか
今週はちょっとあまりによすぎて他の人の感想を見るのが怖いです。
でも自分は感動した。カイザーの生き様のあまりの気高さに。……『気高い』という言葉、『皇帝』という異名が彼ほど似合う人はいないと思いました。彼はなんとなく帰ってこられないような感じがするけれども、もしも彼が選んだ最期がこれだったのならば、私は、讃えられるべき栄光に満ちたエンディングだったと思います。彼の言うとおり『皇帝』には墓標など必要ないのかもしれません。その武勲さえあればいい。孤高にして偉大なる皇帝……
最近ちょっとプリニウスを読み直してることがあって、なんとなく、プリニウスの記述したダイアモンドに対する項を思いだしました。
ダイアモンドの語源はギリシャ語の”adamas(アダマス)”、征服せざるもの、というのを語源としています。プリニウスはこの石を”単に宝石の中だけでなく、人間の所有するあらゆる物の中で、最大の価値を持っている”と記述します。また、同時にアダマスは毒を制し、恐怖心を退け、不要な精神錯乱などを癒す効果をもつ、と。
また、アダマスは鉄をも凌駕する硬度を持つため、かなとこで試したときには、逆にそちらを砕かせてしまうほどだとも言われていました。その性質のために、アダマスは戦士たちの守護石ともされていたそうです。けっして破られざるもの、アダマス……
けれど、当時、アダマスは決して価値の高いものとされていませんでした。なぜならあまりの硬さによって研磨不可能だったため、今知られているような屈折率の高い虹の輝きを生み出すことが出来なかったからです。ダイアモンドが宝石の王として知られるには、ローズカット、エメラルドカットを経て、ブリリアントカットが発明される17世紀を待たなければなりません。
カイザーの運命っていうのは、ダイアモンドのようなものだったのかもなあ、となんとなく思いました。
ダイアモンドはその真の輝きを手に入れるためには、カットされなければいけません。それはときに石全体にとっては非常な痛みを伴うものです。なぜって、真に輝く形にたどり着くには、石を切断し、完璧な形に磨き上げないといけない。その過程にダイアモンドのサイズは大幅に小さくなります。ダイアモンドに大きな石が稀少なのはそのせいです。ただ磨くだけで充分な色石(ルビー、エメラルドなど)にくらべて、より大きな痛みに耐えねば、ダイアモンドは真の美しさを得られないのです。
ダイアモンドは美しくなるためには、身を削り、本来の大きさと形を失わなければいけない。そしてダイアモンドを研磨できるのはダイアモンドだけ。酸もこれを侵さず、日光にも褪せることはありません。たとえ泥にうずもれようと、打ち捨てられ陽の光にさらされようと、決して滅びない。それがダイアモンド。……ダイアモンドを滅ぼせるのは、ただ、一定の角度から与えられる打撃だけです。
カイザーが最期に見せた気高さのなかに、私は、彼が自らに架した修羅の中にも滅びなかった魂を見ました。泥にまみれたダイアモンドのように、もしかしたらカイザーは、己が”adamas(アダマス)”であるという宿命ゆえに、ああならなければならなかったのかもしれません。見出された宝玉が磨かれないことがないように、カイザーは、己が天凛ゆえに、ああならなければならなかったのかもしれない。
それは哀しいことかもしれないし、もしかしたら望まれないことかもしれないけれど、その靭さ、その輝きは、彼の言うとおり、有限であるはずの人間が永遠を手にすることが出来るという、”英雄にのみ許された路”だったのかもしれません。
しっかし、本編で”パワーボンド”が出たときは、思わず「来たぁぁぁぁ!!」と叫ばずにはいられませんでした(笑
カイザーといえば”パワーボンド”。あれがあってこそのカイザー亮。フィニッシュに詰めの一打を打ちながら倒れる姿は城ノ内へのオマージュでしょうが、己の命をかけてユベルと渡り合う気迫には凄まじい迫力があったなと思いました。
すでに命がないというゆえに、”生きる”ために、死へと赴く決闘を戦いぬく…… 逆説的ではありますが、自らそれを全うする彼は紛れもなく決闘者として最も誇り高かったと思います。
最終的にカイザーはユベルをヨハンから引き剥がすという目的は達しませんでしたが、でも、ある意味だと同じか、それ以上のことをやってのけたと思います。十代と翔を、取り戻した。
十代が笑顔と、あと涙を取り戻したのが、カイザーの雄姿を見つめてのことだったというのは、なんだかすごく意味深いなぁと思いました。
”一瞬を永遠のように生きる”、その方法が違っていたとしても、それは十代の生き方そのものですもんね。カイザーはさらにその上に決闘者としての誇りを見せた。彼は『皇帝』であり、十代は『英雄』であると生き方は違っていても、同じフィールドに立つものとして、生き方は等価、命は等価。己の魂の赴くままに精一杯に生きるということが彼らにとっての”決闘”であると思い出させてくれた以上、もう、十代は路を誤ることはないと思います。遊城十代、完全復活です。
そんで、翔もまた、やっと自分のスタンスを決定しましたね。彼は非力で、だからこそ、”見届ける、語り継ぐ”という路を選んだ。でも翔はちょっと間違えてた。”語り継ぐ”ということは、シニカルになること、突き放すことではなくて、共に哀しみ共に絶望し、また、共に傷つき、それを超えて立ち上がるということだった。
ちょっと話は変わりますが、小説を書くものはキャラクターと同じように苦しまなければいけない、と書いた作家がいました。
自分が傷つくように、自分の愛する人が傷つくように、書かなければ、その物語は生きない。共に物語を生きて始めてそこに生きた魂が現れる。翔もそういうことに気付いたんじゃないかなと思いました。ただ見ているだけではなく、共に傷つき共に哀しみ、そして、共に誇りを持って立ち続ける。それができてこその”語り継ぐもの”なのですから。
このあたりがすべて詰め込まれてたんだもんなー、濃いなあ、TARN-148……
逆に、ユベルの負けは、ある意味象徴的だと思いました。過去に囚われ永遠に今を生きられないもの。永遠の子ども。「お前はもう子どもじゃない」と、カイザーに告げられた十代とは対象的に。
ユベルは徹頭徹尾カイザーのことを正面から見てなかったし、彼を踏み越えるべき踵下の石としか見なかった。いっそ卑小ですらあった。彼はあくまで精霊であって、決闘者にはなりえないからなのかな……
レインボー・ダークの召還条件が”宝玉トークンを墓地に”というのは予想通りでガッツポーズ(笑) しかし結局なかなか貫通しない手数合戦。宝玉トークンも出たり入ったり忙しいなー。あわただしいデッキです。でも、ある程度の手札を墓地に送らないと真価が発揮できないって、なんかそういうデッキ、最近多くないですか? アモンのエクゾディオスとか。
しっかし、完全にお姫様スタンスになっちゃったなぁ、ヨハン(笑
何かを思い出したって、世にも懐かしい”甲竜伝説ヴィルガスト”ですよ。あれもお姫様が魔物に身体をのっとられて勇者と戦うって話だったなー。
でも、真に決闘者の誇りを取り戻した十代だったら、もう、負けることはない気がする。大人になってしまった十代にはもうユベルは必要ないから。……可哀想だし、自分はそういう”捨てられた子ども”にはどうしても同情してしまうけれども、十代はきっと己の闇も従えて、真の英雄として戦うことができるんじゃないかなという気がします。
とりあえず今日はベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番《皇帝》を聞いてカイザー追悼です。あの後、近所の本屋に走って買って来た(笑)
同時にワグナーの”ラインの黄金”も買いましたが、こっちはカイザーには似合わないなあ。退嬰の翳りを帯びた英雄の横顔よりも、いっそ、誇りと気高さによって立つ皇帝の威容のほうが彼らしい。
”一瞬を永遠として生きる”……何か誰かそういうことを言ってた人がいたよーな。思い出したらまた書こう。
最期に、彼の選んだ路を見ながら思い出した台詞を。
”「決めろ。『しかたがない』ことなどなにひとつない。選べばいい。選び取ればいい。だれもがそうしているんだ。ひとりの例外もなく、いつも、ただ自分ひとりで決めている。分岐を選んでいる。他の可能性を切り捨てている。泣きべそをかきながらな」” 《”空の園丁Ⅰ”グラン・ヴァカンス 飛浩隆》
彼ならおそらくヴァルハラへの戦乙女のまねびすらも拒むでしょう。己には己の選んだ路だけがある。なにも後悔はしていない、と。皇帝の死には死後の安らぎも大げさな墓碑銘も必要ないでしょう。
あなたは誰よりも気高かった。その振る舞いは皇帝の名にふさわしかった。
さようなら、カイザー。そして、おやすみなさい。
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