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薄暮都市

同人・女性向けの話題専用のブログ ジャンルはよろず。遊戯王・DFF・バサラなど。 ときどき、アイマスや東方などの話も混じりますのでご了承の程を。

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  • 02/02/21:08

文字の力略してモヂカラ


何一つする元気がないので日々だらだらと本を読み動画を見て過ごしていますが、こういうときには心底本が好きで物語が好きでそして小説を書くことができる人間でよかったと思います。
昔傲慢なたわごとを言ってお友達と喧嘩をしたこともあるのですが、私は小説がないとたぶん生きていけないし、生きてる限り、小説と離れることはたぶん無い。顕在的な形なのは珍しいですが、でも、こういう人って世の中かなり多いと思いますよ。

人間というものは、空想を離れて生きることは出来ない。
小説、というか物語、というか絵空事は、絶対にぜいたく品とか余分なものとかじゃなくて、人間が生きていく上で失うことのできない栄養分だと思います。少なくても平気な人はいると思うけれども、無いと生きていけない人もいるし、多量に摂取しないと死んでしまう人も居る。

そういう確信があるので、私は、どんな人であっても小説を書きたいと願う人は、みんな、「書くべき」だと思います。そして書くことは誰にとっても自由だ。それが小説の一番の魅力だと思うのよ。


人間は間違いなく「物語る生き物」なんだと思います。たぶん、「物語る」ようになったかならないかというのが、「人間」という生き物が「私は人間である」と思うようになった転換点なんじゃないでしょうか。

たとえば、旧石器時代の遺跡を調べても、そこには仲間の遺体を花と一緒に埋葬した証拠があったり、テラコッタで作った女性像があったり、あるいは特別な方法で殺しあった骨が見つかったり、壁画に描かれた動物の姿があったりする。
そこに何の意味があったのか? ぶっちゃけ、そういう振る舞いにはなんの意味も無い。ダイヤモンドはただの透き通った石ころだし、焼いた土の塊はどこまでいっても土にすぎない。花も人間も死ねば腐って土になる。でもそこに、なんらかの《違う意味》を見出したからこそ、何かを描き、何かの振る舞いを行い、そして、何かを語る。それが《物語る》ことの元祖なんだと思います。

「ここにない何か」を思うことが物語ることに他ならない。

まぁ誇大妄想だといわれたらそこまでですが…
でもたとえば、今生きている人間だって、そういう機能は備わり続けている。雲を見たらそこにいろんな形を見つけないではいられないし、天井のしみに怨霊を見つけてぞっとしたりする。前頭葉が持つといわれる機能ですが、行き過ぎた想像は現実を超えて何か違うものになる。
その《違うもの》が本質的に人間に備わっているんだとしたら、《違うもの》の中の住人たちは間違いなく全ての人々の朋友だと思う。そして小説というものは一番簡単にそういった友だちと出会うことができる媒体だと思うのです。だって、語ることは何の練習もしなくてもできるもの。上手に語るには練達が必要だとは思いますけども。

たとえばボカロとかアイマスだと顕著なんですけれども、多くの人々に愛されて、「実在しない」にもかかわらずあたかもたくさんの人々の友であり恋人のように振舞う存在は、たぶん実際はぜんぜん新しくない、ものすごく昔から存在するものたちの系譜にのっているんだと思います。
人によっては天使と呼ぶだろうし、妖怪とか妄想とか、妖精とか御伽噺とか、いろんな呼び方はあるでしょう。
でも、「実在しない」ものたちが、たくさんの人々のイメージと、それを実現化する音やかたちや物語やフレーズ、そんなものによって大きなハーモニーになり、それを聞き、聞いた人がまた歌い、参加する人々の気持ちだのなんだのを繋ぎ合わせる。
昔からそういう連中はたくさんいたんだぜ。

人間は真実孤独になることはたぶん無いでしょう。
だって、脳内で「誰か」の存在を「予想」せずに生きることはできないんだから。
たとえば誰からも省みられないで私は孤独だと思っている人であっても、「こんなみっともない私を《ひと》がみたらどう思うか」とか、「ほんとはこんな《ひと》になりたかった」とか想像しないことはできない。そういう想像をしたとき、その《ひと》たちはくるみの城の中で、つまり脳内で、まるで今は近くに居ない知人のように振舞っている。彼らはたしかに実在しませんが、その存在が実際に生きて意志を持って動いている他人と同じくらいの意味をもたないと誰に言える?
彼らはまるい骨の伽藍の中、くるみの城から出てくることは出来ませんが、でも、人間の頭蓋骨には穴がいくつかあいている。そっから神経が束になって出てる。そこから彼らの言葉や振る舞いを少しづつ外へと出力してみることは出来る。そうやって、《実在しない》ものたちは、人間の神経ネットワークを、そこを走る微細な電流を、さらにそれを媒介する文字や音や映像をつかって、さまざまな人の脳から脳へとかけめぐる。

《読むこと》も《書くこと》も、誰かとの出会いに他ならない。

これは、誰にも奪うことの出来ない、根本的な人間の能力であり、拘束です。決してひとりにはなれない。私にはこんなことを言う権利はないかもしれないけれど、他人との接触を拒む孤独なひきこもりや精神病患者であっても、脳に障害をもっていて一般的なコミュニケーションがムリであっても、どこかに幽閉されたり拘束されていても、「ひとりになること」はできない。物語るとき人は誰かと出会う。物語らないとき、それは、単に自分のおうちのドアや窓を全部閉め切って、家族といっしょに息を潜めているというだけのことです。

だから、まぁ、なんといいますか~

文字が偉大だというのは、一番、現代の人間にとってお手軽で、そして受け手の自由になって、情報量が極限まで軽量化されているメディアだからじゃないでしょうか。
「りんご」の一言を聞いたとき、読む人は、お店屋さんにならんでいる丸くてつやつやしててサクサクしたりんごを想像してもいいし、お庭で鳥にすら無視されてる姫リンゴを想像してもいいし、セザンヌの書くリンゴを想像してもいいし、聖書にでてくる知恵の実を想像してもいい。
そんで、「りんご」の三文字は、文字数になると何ビットでしょうね…? ともかく軽い。すごく軽い。電報でもモールス信号でも遅れるくらいだぜ。
でも、その三文字のなかに、無数の情報が想定できる。甘さ、舌触り、蝋を引いたような皮の感じ、リンゴの木、リンゴの花、夏や秋のイメージ、手にもったときの持ち図りの感じ、皮を剥く感じ、誰かにリンゴを差し出す感じ、何もかもが入っている。文字メディアの軽量化の度合いはすごい。

書くことはいいですね。
書いているときには自分の脳内の誰かと出会えるし、書いた後には読んでくださる誰かと出会える。無論
、自分の書いたものを読み返す未来の自分とも出会える。

小説はいいよね!!!!!(結論
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